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☆写真の部屋 シルクロード☆

シルクロードの旅の記録。

第3日目 トルファン(吐魯番)から敦煌へ  1999.09.27
 7:00起床、まだ真っ暗。ホテルのレストランは別棟。歩きながらふっと見上げると月、今日は天気が良い。野菜が多くそしておいしい。ブドウもうまい。
 8:30出発。すぐにゴビになり東に向けてひた走る。空は晴れているが霞んでいる。どうも砂で煙っているようだ。良く見えないが左手には遠く山並み。右手は何も見えずゴビが広がっている。タクラマカン砂漠につながっているはず。
 しばらく行くと左手の霞んでいた山並みが近くに迫ってきた。赤茶けて浸食された山肌が不気味だ。これが火焔山だ。西遊記に出てくる火の山岳地帯。(写真では朝日と窓ガラスの関係で色が少しおかしい)。走っても走っても延々と続いている。
三蔵法師も行く手を阻まれたこの世のものとは思えない地形
激しい温度の変化で風化し崩れ冬季のわずかな雨雪で長年に渡って浸食されて出来た
 その山裾にも村がある。文字通り『火焔村』と言う。ちょうど登校時間帯で子供たちが連れ合って歩いている。さらに小さい子はバスに手を振ってくれこちらも振る。
 この村のはずれに高昌故城があった。クーラーが効いたバスを降りる、暑い。城の中が広いのでロバ車に乗ってのんびりと観光する。
ロバを見たのは初めて
おとなしい子馬
この城も広い まるで西部劇の舞台みたい

 この城の建物や城壁は日干し煉瓦で積み上げて作ってある。三蔵法師(玄奘和尚)も招かれ628年に40日間滞在し講義をしている。講義をしたドーム型の建物もあった。
講義をした講堂 屋根は無かった 要らないか?

 アスターナ古墳もバスですぐ。5Km四方くらいの広大な墓地。もちろんさっきの高昌城塞の住人も葬られている。
この墓以外にもあちこち発掘した跡があった

 写真のように階段になっている。砂に埋もれていたのを掘り出し当時のままだ。地下室の正面奥には壁画が5つ。葬られた人が生前に書かせたもので人生訓を絵で表している。色あざやかな絵の具。外の薄茶色のモノトーンとは対照的。地下室に安置されたままのミイラが見られる墓穴もあった。乾燥しており特別の保存処置をしなくても良いらしい。

狭い峡谷を縫って走る
国道を左にそれて千仏洞へ
 バスは国道から左にそれて渓谷の中腹の道を何キロも登っていく。ベゼクリク千仏洞だ。火焔山脈の断崖の中腹に掘られた30の洞窟。
断崖の中腹に掘られている
千仏洞対岸の岩山 手前は川岸だけに見られるポプラ

 6〜14世紀の作。横穴を掘ってから仏像を作り壁画を描いている。綺麗だった壁画や仏像がひどく破壊されている。特に顔や目がひどい。一部は外国の探検隊によって壁が切り取られ持ち去られている。痛々しい。
 千仏洞の渓谷には大きな河が流れポプラが大きく育ち、両岸の岩肌に比べ緑が目に優しい。
川岸の緑と山塊の対比が際どい

西遊記の記念碑があった

 バスは国道に戻りさらに東に向けて渓谷に沿って登って走る。左右どちらも岩山ばかり。渓谷を抜けると高原に出た。少しずつ綿花畑などが現れる。やっとゼンゼン(善善、ちょっと漢字が違う)に着き昼食。
 チャーター機で15:40離陸、490Km先の敦煌へ向かう。ATR72と言う双発のプロペラ機、4席×16列。ほぼ満員、全員今回のツアー主催社のお客。隣の方は年配向けのコースでゆったりした日程で16日間かけて中国を一通り回るとのこと。元気で驚く。16:45着陸。
最新型の双発プロペラ機 6枚羽根
 ホテルにチェックイン。すぐ鳴砂山(めいしゃさんと読む?)へ行く。東西40Km、南北20Km、最高250mの大砂丘。砂丘と言っても高く広い。ラクダに乗って奥へ入って行く。
ちょうど夕方 稜線がきれい
 奥で降りて砂丘を登る。砂粒がとても細かい。ガイドからカメラを落としたら砂が入り込んで修理不能との注意を受け慎重に登る。本当に細かくて三歩進んで二歩ずり落ちる感じ。下から見上げた目標まではとても上がれず断念。
 敦煌の市街の眺めがすばらしい。今日は風が無く、太陽も沈みマスクやサングラスが要らない。
遠くの緑は敦煌市街
手前のオアシスは月牙泉
砂丘の谷間に小さなオアシス(月牙泉)。砂に埋もれることもなく昔から永遠にあるそうな。
 すっかり夜になり帰りもラクダの背で揺られていると『月の砂漠』の歌が自然に出てきた。

 夕食はレストラン。先ほどの砂丘登りが効いてみんな食欲旺盛。料理も口に合い殆どきれいに食べた。泊まりは敦煌賓館。


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